まめカメラ

まめのカメラブログ

カメラが好きな八王子在住 28歳のブログ

人生は 一生かけた 暇つぶし

 

どうも、まめです。

 

今回は「生きている意味」というクッソ重苦しい話題について。

 

最近、建築業に転職したのですが運転時間がめちゃくちゃ長い。

 

片道2時間の現場だと、休憩含めて5時間は一人で座っている。残りの2.5時間働いて終わり。残業もない。

 

その運転時間がなんだか無駄に感じてしまう。

 

勉強したり、なにか有意義な時間にしたい

と考えるようになりました。

 

でも、

なにを勉強するか?

勉強するために目標設定が必要ではないか?

僕はどうなりたいのだろう?

10年後どうなっていたい?

人生の目標は?

生きてる意味とは?!?!

 

と、思考の沼にズルズルはまっていってしまいました。

 

なにかを頑張っていないと生きている意味がない

 

という、強迫観念に似た思いがあって、

「暇」があると

自分の価値が下がっているような気がしてしまう

 

ここ数日、悩みに悩みすぎて

死にたいと思うレベルまで闇落ちしていましたが

なんとか生きるための結論を出すことができました。

 

あまり読みやすいようにまとめませんが、

ここに残しておきます。

 

 

 

 

 

まず、もうこの時代、

「○○をやることが使命」ということは無い。

「○○をしなければならない」というのも無い。

 

大谷翔平だって、別に野球を続けなくてはならないわけじゃない。

松本人志もテレビに出ないといけないわけではない。

単純に「それが楽しいから」大谷翔平松本人志も表舞台にいるだけなのだ。

 

だから「~しなければならない」という、

shouldの考えは要らないのだ。

 

「成長しなければならない」

「努力しなければならない」

「有名にならなければならない」

「生きている意味を見つけなければならない」

 

そんなことは、一切ない。

 

人間に、そんな使命は備わっていない。

 

これは「宇宙的無意味論」に通じてくる。

 

あと50憶年もすれば、地球は太陽にのまれて消滅する。人類も宇宙に出ていかない限り絶滅する。

138憶年(と言われている)の宇宙の歴史の中で、

一人の人間が生きる時間なんてたったの100年。

ほんの一瞬以下だ。

どんだけすごい偉人だって、ただ教科書に載るだけで、歴史が続けば続くほど隅に追いやられて教科書にも載らなくなる。

大谷翔平松本人志も、最終的には死ぬ。

 

 

人間が生きている意味は無い。

 

人間にだけ特別、生きている意味があるという考え自体が傲慢だったのだ。

 

偶然にも脳が発達し、文明を築き、

死や生きる意味について考えられる生物になっただけで

元はアメーバや細胞となんら変わりない、

ただの、一つの生命体だ。

 

1兆個の細胞の内の1個が死滅したとして、

それが特に意味を持たないように、

今まで何千億という人間が生まれては死んでいった中、自分が死ぬということも、特になんの意味もないのだ。

 

だから、

「何かを頑張っていないと生きている意味がない」

という考え自体が間違っていたのだ。

 

正解は

「何をしようが生きている意味はない」

だったのだ。

 

でも、これは悲観的な言葉ではない。

 

何かを成し遂げなくても、別にいい。

必死に生きる必要もない。

勝手に背負っていた荷物は下ろしていいのだ。

 

でも、そうすると

人間は、生物は、とても悲惨な存在だ。

 

生きている意味もなく、

いずれ訪れる死に恐怖し、

稼いだお金は税金とられ、

受験や就活で挫折し立ち直れない者もいる。

 

どう考えても、

生きていると辛いことのほうが多い。

 

生きるとは苦行ではないか。

 

であれば、人間に生きている価値は無いのだろうか?

 

そもそも、人間の価値とは何だろうか?

 

価値がある人間とはどんな人間なのか。

 

価値が無い人間とはどんな人間なのか。

 

 

僕は

「人間の価値は皆等しく《1》である」

という考えに至った。

 

100点満点の1点ではなく、

1点満点での1点だ。

 

根本的には、増えもしなければ、無くなりもしない。

 

仮に大谷翔平を「価値がある人間」だとしよう。

それはなぜかと考えたとき、

「メジャーで次々に大記録を打ち立てているから」

年棒が100億円を越えているから」

「大胆なプレーで人々に勇気を与えているから」

というような理由が挙げられると思う。

 

これが真であるならば、

逆説は「価値が無い人間」ということになる。

 

「メジャーで大記録を出せないと価値はない」

「年俸が100億以下の人間は価値がない」

「人に勇気を与えられないなら価値はない」

 

この逆説は成り立たない。

記録がなくとも、年収が低くとも、人に勇気を与えられなくても、「価値がない」ということにはならない。

 

そもそも野球を知らない人には

大谷翔平に対して大きな価値を見いださない。

 

つまり、

「人間の価値」というものは

指標とするにはあまりにも不確定要素が多すぎるし、人によって判断基準が異なる。

 

人間を「価値」という指標で計るのは無理がある、ということだ。

 

しかし価値が無いと言いきれる理由は、ほとんどない。

 

だから、人間の価値は皆《1》でしかない。

 

増えも、減りもしない。

 

「何か頑張っていないと価値が下がっている気がする」

なんて思う必要はない。

 

「もっと価値ある人間になりたい」 

「もっと価値ある時間を過ごしたい」

なんて思う必要はない。

 

人間に意味はなくとも、価値は等しくある。

 

先日、妻に

「僕が芥川賞とかとって有名になったらどう?嬉しい?」と聞いてみたことがある。

 

スマホをいじっていた妻は目線をスマホに向けたまま、「えー、別に。」と言った。

 

「自慢とかしないの?」と聞くと、

「特に誰かに言うこともないかなぁ」と。

 

なんで?旦那さんが世間に認められて価値の高い人間になれるのに自慢もしない?何を望んでいるんだ?

と思ったけど、

よくよく考えてみると、仮に妻が有名になったところで、別に今より惚れるわけでもない。

とりあえず生きて隣にいてくれればそれだけで良いと思う。

きっと妻も同じなんだろうと思う。

人の価値は《1》だ。

 

だからもう勝手に自分で作った肩の荷をもう背負わなくていいのだ。

 

HSS型HSPの自負がある僕は

何かを始めては続かず、

また何かを始めては続かず、

そんな自分に嫌気が差していた。

嫌気なんて生ぬるいものではないな。

 

自分は何も成し遂げられない

自分は何にも熱中できない(生きてる意味を見出だせない)

ただ平凡に死を迎えるなんて絶望でしかない。

 

きっと、ずっと

「生きている意味」を見つけたかったんだと思う。

 

でも色々とやってみるけど

「これは生きている意味にならない」

「これ以上やっても意味がない」

って「意味」ばかり探していた。

 

結果が欲しかったのだ。

過程が楽しかったはずなのに、いつしか

「これだけやっているんだから結果が、意味が伴わないと」

と肩肘はって変に深く考えすぎていた。

 

違うんだ。

「ただ過程を楽しむ」

というだけで十分だったんだ。

別に結果なんて必要ない。

 

それをやっていて楽しくて、

それをやっている自分が好きになれるなら、

それ以上はないのだ。

 

「こんだけやったんだからお金を稼げるレベルにならないと」

「こんだけやったんだから人に影響を与えるレベルにならないと」

 

ここでもやっぱり、「~しなければならない」という考え方になってしまっていたんだ。

 

頭のなかで「should 構文」が流れた瞬間にシャットアウトするくせをつけた方が良さそうだ。

 

 

人生は一生かけた暇つぶし

という言葉がある。

 

たしかに、と思う。

 

誰もが暇つぶしをしているんだ。

 

インスタで見た、すごい芸術的な絵を書く人を羨んでも、

その人はただ「絵を書いてアップする」という暇つぶしをしているだけだ。

 

バリバリ仕事をしてたくさんお金を稼いで大勢でパーティをしているような大富豪を妬んでも、

「大勢の人と楽しむ」という暇つぶしをしている。

 

仕事ですら、広い意味では暇つぶしだ。

 

人間は暇つぶしするために生きている

とも言いきれる。

 

意味のない暇つぶしをすることが

生きている意味なのだ。

それは意味がない、とも同義だ。

 

人生は暇つぶし。

暇つぶしだから、別に生涯をかけて何かを成し遂げる必要もない。

ただ楽しめばいいのだ、暇つぶしなんだから。

それが人間という生き物なんだから。

 

 

だから、1日家の中でテレビを見て日曜が終わっても、自分を責める必要はない。むしろ褒めるべきだ。上手に暇つぶしできたね、しかも体力も回復した、最高だね、と。

 

でも持論を挟むと、

暇つぶしっていう言葉は

なんだか消極的なニュアンスを含んでいて

あまり好きじゃない。

 

僕なりの解釈だと、

僕が一番好きな言葉が

「配られたカードで勝負するしかない」

というスヌーピーの言葉なんだけど、

それを踏まえると

 

人生は暇つぶしではなくて

「レアカードを探すこと」

なんじゃないかと思う。

 

自分が好きなこと、もの、

心が踊るもの、楽しいと思えるもの。

 

それを楽しめるっていうのは、自分が持っているカードだ。となりの人はそのカードを持っていないかもしれない。

 

僕で言うとカメラが好きというカードを持っている。

でも大抵の人はスマホのカメラ機能で満足しているから、わざわざ高額なカメラを買ったりしない。

 

僕はその「カメラが好き」というカードを使う機会を増やして、増やして、いつしかそのノーマルカードがレアカードに変わった瞬間がある。

 

レアカードになると、もうそれは手放せないものになる。無くなることも、奪われることもない。

 

それはそのカードを持っていることでどんな結果を得られるだろう、なんて考えずに

そのカードを使えること自体、その過程を楽しむだけで満足していたからだと思う。

 

人生はそのレアカードを増やして、楽しく過ごすためにあるんだ。

 

それがいつかウルトラレアカードとか、

ホログラフィックレアカードになったりするかもしれない。

 

だから、ただただそのレアカードを愛でていれば、それだけでいいのだ。

それが幸せってことなのかもしれない。

 

 


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以上