まめカメラ

まめのカメラブログ

カメラが好きな八王子在住 28歳のブログ

【短編】離陸

 

8時5分発福岡行きの飛行機に間に合うよう、5時ちょうどに家を出た。普段は7時すぎに起床し、朝日がカーテンから差しているのだが、さすがの5時なのでまだ陽も昇っておらず、夜中と同じ暗闇が広がっていた。

  修平はその光景にすこし恐怖を覚えた。自分はすでに風呂に入り、スーツを着、髪をセットし、常と変わらず玄関を開けたのに世界は修平に着いてきてくれていない。

  行ってらっしゃい、と葉子が玄関で見送る。どちらかが出掛ける時、残っている方は必ず玄関まで着いていき、行ってらっしゃいと言うことが2人のルールになっている。

まるで、敵だらけで危険な外の世界に挑み込む片割れを激励するかのように。少なくとも修平はそのような心持ちで、ひとつの勇気を出して玄関を開ける。

 

 急な出張だった。昼過ぎに福岡に着いていれば良いスケジュールではあったが、福岡を訪れるのは初めてだった。修平は遅刻というものを何よりも怪訝していた。いつからかは覚えていないが、学生時代も遅刻というものをした記憶がない。アルバイトも長くやっていたが、やはり遅刻はしたことがない。遅刻は良くない、というのは明らかではあるものの、なぜ自分はここまで遅刻というものに拒絶反応を示すのか、具体的な理由を考えたことはなかった。ただ脳に遅刻というワードが浮かんだ瞬間に激しい拒絶反応が起こるのだ。それだけで十分理由となり得ると思っている。

福岡には10時に着く。取引先とのミーティングは13時からだから十分に余裕がある。

───余裕。余裕が欲しいのかもしれない。

 

早朝にも関わらず空港は人で溢れていた。多くは修平と同じスーツ姿の男たちだ。ここにいる一人一人にビジネスがあり、複雑な金銭関係が生まれ続けている。八百屋で野菜を何百円で、というシンプルな話はほとんどないのだ。原価がいくらで、掛け率がなんたら、人件費、資本金、仲介金。複雑に絡まったビジネス網を全員で作り上げている。

修平は複雑なことが嫌いだ。出来るだけシンプルに生きるように心がけている。社会人となり、世の中の、人間関係の複雑さをさらに体感し、シンプルな生活をより望むようになった。

 

搭乗時間になり、目的の搭乗口では席番号30番以降の乗客から誘導を開始していた。修平は56番のE席だったので、その流れに乗りゲートを通るとビジネスとファーストクラスの分かれ道がある。平社員の修平はもちろんビジネスの通路を通った。

 

  葉子さん───葉子は修平より一回り近く、正確には11歳年上なため"さん"付けで呼んでいる───は1人では飛行機にも乗れないだろうなと修平は思った。搭乗口であたふたする葉子さんを想像し、ふっと口元が緩んだ。

  箱入り娘、というほど過保護に育てられたわけではないが、葉子さんは今までたくさんの人の手助けを受けながら生きてきたのだろうと思う。何かをしてくれ、守ってくれと言わずとも、誰かが集まり、葉子さんを良い方向へ動かしてくれるのだ。

そして、葉子さんには出来ない事と初めての事が多い。1人で飛行機の搭乗手続きなどはしたことがないらしいし、外へ出かけても初めて来たと感想を言うことが多い。

修平はそれを微笑ましいと思う。経験豊富な年上女性を求めているわけではない。ただなんとなく、葉子が気に入ったのだ。今は東京の外れの3DKのマンションに2人で暮らしている。

 

修平は飛行機に乗りこみ、4席並んだ真ん中の列の左から2番目の座席───本当は外が眺める窓際の座席が良かった───に着いた。

イヤホンをし、ショパンノクターン第2番をかけた。修平はこの楽曲が好きだ。別れ難い気持ちと代わる代わる変化していく情景を音から感じる。ショパンがどういう気持ちでこの楽曲を作ったかは知らない。でも自分が感じた印象や、聴いていて浮かんでくる景色が真だと思うことは間違ってはいないはずだと修平は思う。大半の芸術は受け取り手の感受性があって初めて完成するのだ。

 

飛行機が動き始め、ゴオオと大きな振動をさせ滑走路に入った。加速の重力を胸辺りに感じ、ノクターン第2番は転調のパートに入っていたが堪らずイヤホンを外した。

どうもこの瞬間だけは慣れない。

命の危険、というと大袈裟に思われそうだが、修平は唯一この瞬間に命の危険を感じるのだ。そして地面から離れることも、また不安になる。

───なぜ不安なのだろう。

 

葉子さんの顔が浮かんだ。

左隣のサラリーマンはスマホからイヤホンで音楽を聞いて目を閉じ眠りに入っている。

もしこのまま翼が折れて墜落でもしたら、音楽を聞いていて知らぬ間に死んでしまったとしたら、と考えると修平にはそんな荒業は出来ないと思った。

 

肩が浮くような感覚がし、滑走路が遠ざかっていく。

もう戻れないのだ。この地面には。

友人も、家族も、葉子さんもいない上空から着陸するまでは、僕はひとりぼっちなのだ。

 

飛行機が雲を見下げる位置になった時、修平は諦めがつき手に持っていたイヤホンを着けた。

すでにショパンノクターンは終わっていて、ベートーヴェンの月光が流れていた。

 


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