久美子は一人暮らしの家から歩いて5分ほどの「喫茶 ウツボ」のコロンビアコーヒーが好きだ。基本的に砂糖もミルクも入れない。深い苦味とさわやかな風味が口の中を駆け抜けると、なんとも言い難い開放感に包まれる。濃い黒色のコーヒーの水面を覗くと、どこまでも潜り込んでいくような感覚になる。その感覚も好きだ。
久美子はこの喫茶ウツボに毎週土曜日、昼前の11時に訪れるが習慣になっている。席は店に入ってすぐ左の4人掛けテーブルの左奥で決まっている。そのテーブル席は後ろに窓があり、お昼時には気持ちの良い光が差してくる。光はテーブルを照らし、コーヒーカップに反射し、空気が光りだし、辺りはふんわりとした空間になる。久美子はその空間に包まれると、平日の疲れが癒えていく気がした。今日が休日であることを身に染みて感じる。
OLYMPUS OM-D E-M10 MarkII / M.ZUIKO DIGITAL 17mm F1.8
その日もいつも通り、土曜日の11時にウツボを訪れた。店主は70歳近いであろうご婦人だ。スラっとした体格 ──薄地の紺のカーディガンがとても似合っている── をしていて、マッシュルームカットの、寡黙な雰囲気の女性。久美子はまだ一言二言くらいしか会話をしたことがない。「今日のデザートは『 バナナのハニートースト』なんですね」とか、「美味しかったです、ご馳走様です」とかだ。
この適度な距離感も心地良いと感じている。常連さんらしき女性がカウンター席に座り、店主さんと話をしている場面を時々見るが、それでも店主さんは受け答えをするだけで、常連さんがひたすら日頃の話をしている。店主さんは時に微笑みながら相槌を打ち、グラスを拭いていた。
久美子も積極的に会話をするタイプではなかった。喫茶店の常連となって店主さんと仲良くなりたいという動機も持ち合わせていなかったので、この喫茶ウツボはとても合っていると思う。33歳の一人暮らしなので基本的に一人の時間か豊富にあるのだが、この喫茶の、この席で味わう一人の時間は違った満足感がある。孤独であることに変わりはないけれど、この空間を独占できているような開放的な孤独感も久美子は好きだ。
いつも通り『 コロンビアコーヒー』と『 今日のデザート』を頼んだ。注文を受けると店主さんはキッチンに戻り、コーヒーサイフォンと珈琲豆の準備を始めた。
ガリガリ、ガリガリと珈琲豆を挽く音が聞こえてくる。久美子はウツボでは特に読書をするわけでもなく、背もたれに寄りかかりながら満遍なく店内を見渡している。毎週このテーブル席で店内を眺めているが、毎回新しい発見があり飽きが来ない。身を置いているこの空間を充分に味わうことがなにより楽しく感じた。
後ろの窓からの光が増してきた。店内を明るく照らしている。真っ白な空間が出来上がっていく。目を閉じ、空気を肌で感じようとした。
コポコポ、コポコポ──
コーヒーサイフォンが熱せられて、お湯が湧き上がり珈琲豆と混ざり合う。
Nikon F3 /AI Nikkor 50mm f/1.4S
ふいに肩を叩かれた。目を開けるとすでにコーヒーと今日のデザート──今日は桃のジェラートケーキだった──がテーブルに置かれていた。店主さんが横に立っていて、寝てしまっていたことに気が付いた。
──いつもこの席に座ってらっしゃいますね
少し微笑みながら店主さんが顔を覗き込む仕草をした。
「すいません、寝てしまってました。コーヒーとデザート、ありがとうございます。」と言うと、
こちらこそ毎週来て頂いてありがとうございますと店主さんが言った。
いえいえ、と会話を済ませようかと思ったが、久美子はこの店主さんと少しだけでも会話をしてみたいと思った。
このテーブル席の窓からの光の差し込みが好きなこと、ここのコロンビアコーヒーが好きなこと、疲弊する平日で緊張した気持ちを和らげられる場所であることを話した。
店主さんは久美子の目をまっすぐに見ながら話を聞き、相槌を打ち、また薄く微笑みかけた。
──私も開店前の準備中、少し休む時はこのテーブル席なんですよ。私もこの席の、この光の差し込みが、好きなんですよ。
ちょっと待ってて、とキッチンの奥に戻っていってしまった。小さなビニール袋を手に持ち、中には黄色の果物のようなものが入っていることが透けて見えた。
──貰い物の柚子なのだけれど。よろしかったら。
ビニール袋の中に柚子が5つ入っていた。
「ありがとうございます。立派な柚子ですね。お鍋でも作ろうかしら、ぶりの潮汁に入れても美味しそうですね。」
お辞儀をして受け取った時、たまに見かけた常連さんが入店してきた。店主さんは失礼しますと少し首を傾け、常連さんを出迎え、いつものカウンター席に案内した。
テーブルのコロンビアコーヒーの湯気はまだゆらゆらと生じている。来週の土曜日、またこの喫茶店に来る時、何かお返しを持ってこようかしら、と考えながらコーヒーカップに手を伸ばした。
そういえば実家から送られてきたお餅がまだたくさん余っていたのを思い出した。実家の地域でついたお餅で、久美子はこのお餅を食べて育った。上京してからスーパーの包装されたお餅を買って食べたが、食感も味の優しさもあのお餅に遠く及ばなかった。それを母に伝えると定期的にお餅を送ってくれるようになった。冷凍保存しているから、次回持参してお返しとして渡そう。
先日の柚子のお返しです、美味しいお餅なのでよろしかったら。
そう言って店主さんに渡そう。すると、店主さんは、
わざわざどうもありがとうございますと、また少し微笑んでお辞儀をするのだろう。
会話はするだろうけれど、カウンター席ではなく、変わらずこの光が差し込むテーブル席に座ろうと久美子は思った。それがこの喫茶店での好みな距離感であり、店主さんとの距離感でもあると感じた。
コロンビアコーヒーを1口啜ると、いつもより透き通った苦味を感じた。